Something sad


それは彼岸も過ぎ、そろそろ桜も咲こうかという晴れた暖かい日差しが差し込む午後。
刑事部屋内を暗く重い空気が支配していた。
誰も何も話さない。落ち着きが無い。近藤が報告書を読み終えてから目を上げると、そこに居た全員が悲痛な表情を浮かべていた。

―――仕方の無い事だ

近藤はそう思い、その沈黙を破った。

「大下はどうした」

そう問われて敏樹以外の全員の視線が勇次のデスクへと向けられた。
デスクの主は、そこに居ない。
吉井が近藤に向かって静かに首を振り、再び視線を落とした。
そして全員、その重い空気に耐えながらも各々デスクワークを始めた。
敏樹は今日何本目かも忘れてしまった煙草にまた火を付けた。
しかし一口、二口吸う程度で後は全て灰となって落ちていく。既に灰皿には吸殻が山積みになっていた。
見かねた瞳が灰皿を交換したが、それにすら気付かずにただ何もせず、片肘をついて何かを考える様にじっと一点を見詰めていた。

傍から見ればただサボって時間を潰しているように見えるが、もちろんそんな事は無い。
状況が状況だけに誰も何も言わなかった。
署内には居るであろう勇次の行方も誰も尋ねなかった。
しばらくしてから、敏樹は意を決したように立ち上がってジャケットを片手に刑事部屋を出て行く。
恐らく勇次の元へ行くのだろう、と全員がその背中を見送った。
近藤はその背中に「敏樹だからこそ」今できる事を託して、同じように無言で見送った。


恐らくはあそこにいるだろう、と検討はついていた。
階段を登る足取りが重い。本当は何もしない方がいいのでは、と思っていたがどうしても心配だったので足を運ぶことにした。
いずれにしても部屋に居たところで余計に空気が重いだけで居心地が悪い。
日差しはこんなにも温かいのに、ドアノブが異様に冷たい。
いつもは何とも感じないドアが妙に重い。
一瞬開けるのを戸惑ったが、意を決してそのドアを開いた。

まだ冷たい潮風が一気に身体を通り抜けた。
決して広くは無い屋上を見渡すと、奥の方に小さく丸まった背中が見える。
その姿を見てまた表情が険しくなる。ジャケットを肩に掛けて一歩一歩、ゆっくりとその背中へと歩み出した。


勇次は鉄柵に手を付き、街並みと海を見ていた。
しかしその目には殆ど何も写っていない。ただただ静かに、少し俯くように何処かを眺めている。
その横に敏樹は鉄柵にもたれかかる様に背を預け、いつものように煙草に火を付けるが、何も話そうとはしなかった。
時間にしては少しだったかもしれない。だが長い長い沈黙の時間だけが過ぎていく。

「・・・そんなつもりじゃなかったんだ・・・」

一言、まるで掻き消えてしまうくらいの弱く小さな声で、勇次が呟く。
その言葉を聞いても、敏樹は何も言わずただ隣に佇む。

「・・・そんなつもりじゃ、なかったんだ・・・」

もたれかかった両腕に顔を埋めて、勇次はまた呟いた。

「・・・解ってる」

静かに敏樹も、ただ一言だけ答えた。
その姿はまるでかつての自分自身でもあった。だからこそ、容易な言葉は必要ない。そう思っていた。

現場の状況からして勇次の判断は正しかった。
後少し遅かったら自分が撃っていただろう。居合わせた全員が勇次の正当性を認めていた。
しかし、またそれは別の問題だった。

「お前は・・・あるのか?」
「・・・ああ。ここに来る前。まだ刑事になったばかりの時に」
「どうやったら忘れられる?どうすればいい?」

その問いに敏樹は答える事が出来ない。
乗り越えられる術があるのなら、忘れられる術があるのなら教えてもらいたいくらいだったからだ。

「・・・なあ、オレはどうしたらいいんだ・・・?」

まるで吐き出す様に呟かれた言葉が敏樹の胸にも突き刺さるようだった。
教えられる事など無い。自ら築いた壁は自らが乗り越えねばならない。
その壁はとても高く、険しい。

「オレも、同じだ。忘れる事は多分一生・・・無い」

当時を思い出しで胸にその感情が再び蘇る。

「辞める事も考えた。酒にも頼った。信念すら捨てようとした。それでも、今でも忘れる事なんて出来ない」
「・・・・・」
「オレも、お前と同じだ」

勇次が顔を上げた。隣で敏樹はただ俯き、悲しい表情を浮かべたままだった。
悲しくて、虚しくて、涙が止まらなくなった。
勇次は声を押し殺して泣き続けた。
今抱えているその辛さも、当時の自分と同じ。後悔してもしきれない悲しさと虚しさ。
まるで胸に穴が開いてしまったような息苦しさ。行動の否定も肯定もしない。
どんなに涙を流そうと、今はそれでいい。そう思う。それをこれからに繋げる事ができるのならそれでいい、と。

「誰も居ないし、誰にも言わない。我慢しなくていい。だから今は、全部吐き出しちまえ」

そう言ってその頭をくしゃくしゃっと撫でた。

「お前が泣き止むまで付き合ってやる」

同情ではない。その痛みが解るこその優しさと労りで更に涙があふれ出る。
言葉通り、全てを吐き出す様に涙は止まる事は無かった。
勇次のその姿を見て、思う。

―――自分で乗り越えるしかない

改めて思うそれは、自らにも言い聞かせた事だった。
忘れてはいけない。この手に銃を持つ事を許可されている以上、忘れてはいけない事。


初めて人を殺してしまった日。
一生忘れ得ぬ事の出来ぬ日。




ようやく落ち着いた頃には既に陽は傾むきかけていた。
2人共柵に寄りかかって座り込んでいた。
敏樹が煙草を差し出すと、勇次は弱々しく笑って一本取り出して火を付けてもらう。

「お前の時は・・・誰か居てくれたのか?」

流れていく紫煙を見詰めながら勇次が尋ねると、敏樹は少し困った顔をした。

「・・・居なかった。同僚は声を掛けてくれたけど、どんな言葉も虚しいだけだった」
「・・・そうだったんだ・・・悪ィ」
「その様子に見兼ねたのか、課長がここに引っ張ってくれた。オレの場合はまた色々あったし」
「そっか・・・」

それ以上は何も聞かなかった。聞く必要も無かった。煙草を床に押し付けて火を消した。
自分にはこの気持ちを少しでも理解してくれる人が居る。それがどんなに大切な事かが解る。
深く息を吐いて空を見詰めてぼんやりしていると一日の疲労がどっと押し寄せてきた。

「・・・タカ」
「?」
「・・・疲れた」
「は?」

それだけを言うとカクンとあっという間に寝入ってしまった。

「ちょ・・・ユウジ、こんなところで寝たら風邪ひくぞ!」

そう言って肩を揺さぶるが一向に起きる気配がない。
それどころか揺さ振ったせいで敏樹の肩にもたれかかってきて完全にその肩を枕にされてしまった。
呆れて物も言えずため息を吐いて「勘弁してくれ・・・」とボヤく。
このままでは自分も動けない。
空いている片手で額を押さえて、寝入ってしまった相棒を見ると、余程疲れていたのだろう。無防備に完全に寝入っている。

「無理も無いか・・・」

肩に掛けておいたジャケットを仕方なく勇次に掛けてやった。
上着を渡してしまった事で潮風を防ぐ術が完全に無くなってしまい少し寒い。
さすがに自然に起きるまで待っていたら自分も風邪をひいてしまう。
だが、今すぐ起こすのも忍びない。

―――今日くらいは多目に見てやるか

片手が塞がって少々不自由な手で再び煙草に火を付けた。
冷たい潮風の中にほんの少し春の匂いを感じる。
その風の中へ紫煙がゆっくりと消えていった。
2人がコンビを組んでほんの数か月経った、とある日の出来事だった。