In The Rain side-Y


目の前にあるのは濃い灰色の空。
目を閉じると雨音だけが妙に耳に残る。

―――雨は、嫌いだ

そう胸の内で呟いて再び空を見上げる。
止め処なく落ちてくる雨粒が彼の気持ちを一層憂鬱にさせる。
雨はいつも気分を落ち込ませる。悪い思い出も多々ある。
それに何より服も汚れるし傘も荷物になる。季節が季節なら部屋もジメッとしてしまう。
しかしこの雨がなければ農業・酪農には大被害だ。ただでさえ月々のローンのせいで懐事情が厳しい身としては食料品の値上げは厳しいところである。

いつも、雨の日は憂鬱だ。

そんな事を思いながら適当に停めた車から降りて歩き出す。
向かったのは横浜スタジアムの一角。
雨が降っているのを解っていて傘も持たずに歩いて向かった先は、内野席2番入口。

シーズンオフとあって誰も居ない。
しかもこの雨だ。公園に遊びに来る人も少ないだろう。
シーズン中となればホームであるベイスターズファンとアウェイのチームのファンで付近は賑わう。
少し前にAグループ残留、翌年には優勝という快挙を成し遂げた時はえらい騒ぎになっていた。
別チームのファンとしては面白くない展開だったが数十年振りに優勝したのだ。
そのくらいいいさ、と思っていたがあまりにもはしゃぎ過ぎて度を超えた行動に出る連中も居たおかげで翌日までそこら中走りまわされた思い出がある。
それもあまりいい思い出ではない。
浮かれる気持ちは解らない事もないが何事も適度にやってくれ、そう思った。

今やそれは懐かしい思い出。
次にそんな騒ぎが起きるのはいつだろうか。
そんな事を思いながら、まだ濡れていない壁に背もたれにして煙草を出した。

紫煙の流れていく先の空を見上げて来るとも解らぬ待ち人を待つ。
きっと来る、そう信じたい。
相棒ならきっと信じないだろう。

―――お前は情が深すぎるんだ

そう言うに違いない。
けれど、それでもいい。
信じて騙されても、また人を信じられるならその方がいい。
不安はいつだってある。
裏切られた時の悲しさは覚悟していてもやはり辛い。

野球だって同じだ。
きっと今年は優勝してくれるに違いない。
前は酷い成績だったが今年こそは、そう信じて毎年シーズンを迎える。
あれだけいい選手を迎えたんだからそれなりの成績は・・・と期待してみては裏切られ、翌年にはいい成績だったり。
何が起こるか解らない。
だからファンはテレビで見るのではなく、球場へ足を運ぶのだ。
結果に一喜一憂して応援したり野次を飛ばす。

・・・自分の仕事と野球とは全く違うのは解っているが・・・。
思わずその考えに苦笑いしてしまう。
好きだから仕方がない。野球も、ゴルフも、仕事も。



靴底で火を揉み消して吸い殻を携帯灰皿に投げ入れた時、1人の女性が現れた。
歳の頃は自分よりもかなり若い。
セミロングの黒髪が少し濡れていた。
俯いたままで悲しそうな表情で少し距離を取って、今の自分と同じように誰かを待っているように辺りを見回している。
サングラスに隠された瞳はその女性を見ていた。

―――この女性が・・・そうなのかもな

そう思うと視界の端の彼女が写るように、また空を見上げた。
これから自分がする事は彼女にとっては残酷な事なのかもしれない。
けれどもそれが仕事。そして、約束。
だがやはり正直気が滅入る。

「・・・あの・・・大下さん、ですか?」

遠慮がちに先程来た彼女は声を掛けてきた。
その表情は酷く脅え、声も少し震えていた。

「・・・はい」

勇次はゆっくりとサングラスを外し、素顔を見せて極力優しく答えた。
彼女はその答えを聞くと、表情は脅えと悲しみの色を見せた。
だが意を決したように力強く口を開く。

「見逃してください、あの人を」

恐らくそう言うだろうと勇次は思っていた。
少し困った顔をしてから目を閉じて首を横に振った。

「それはできない。あいつも覚悟の上でオレに連絡してきた。あいつのためにもそれは、できない」

少し強い口調で、はっきりと言った。
残酷な事を言っていると自覚している。
女性を泣かせたくは無い。だが彼女の願いは聞けない。見逃すということはできない。
そう懇願した彼女自身のためにも。

「お願いします。今あの人に居なくなられたら私・・・」
「君の事を大切にしているからこそ、こうして君もここに呼び出したんじゃないのかな、あいつは」

そうだと思いたい。
今度こそ足を洗いたい、大切な人の為にも。「あいつ」はそう言っていた。
彼女は俯いてそれ以上は何も言えなくなっていた。

10分、15分・・・。
一体どのくらいそうしていただろうか。
横浜公園の方から1人の男が走ってきた。
20代後半くらいの若い男。
背格好は大体自分と同じくらいだ。

ゲート前に居る女性を見て一瞬笑顔を浮かべるが、一緒に居た男の姿を見ると表情が曇った。

「大下さん・・・・」

男がそう呟くと、女性が不安そうに振り返り、こちらを見た。
男は何も言えなくなってしまった。

「デートのダブルブッキングとは聞いてなかったぞ、真崎ぃ」

軽口とは真逆の厳しい目を真崎と呼ばれた男に、勇次は向けた。
女性は真崎と勇次を交互に見て、真崎にしがみつく。

「お願いです、彼を逃がしてあげて・・・お願いだから!」

必死に懇願する彼女に対して再びゆっくりと首を左右に振った。

「何度も言って申し訳ないけど、残念ながらそれだけは出来ないんだ。逃げたら逃げたで「お勤め」が長くなる」

元々真崎もそのつもりで来ていた。
もう一度愛する人に会いたいと思ったのだろう。
そしてその姿を彼女に見せたかったのかもしれない。

真崎と呼ばれた男は連続ひったくり事件の実行犯だった。
以前勇次が逮捕し、初犯で執行猶予中だったが、どうしても仲間を裏切れなかった。
裏切れなかったというよりも「彼女」の存在が昔の仲間にバレてしまい、脅されていた。
スクーターで女性を襲い、荷物を奪い、それをその仲間内で分け合う。
そうする事で逃げられなくした。裏切れないように足枷をつけた。
スクーターに乗ったままの犯行でどうしても手加減が出来なかった。
深い傷を負わせてしまった女性も居た。
その姿が「彼女」と被ってしまい、我慢が出来ずにこうして勇次に連絡をした。
自分は「彼女」と居てはいけない、と。

だが「彼女」は真崎と離れる事を拒んだ。
本気で愛していた。その気持ちは真崎も同じだった。
だからこうして目の前で自分に手錠を掛けられる姿を見せたかった。
罪を犯したと、「彼女」に改めて知ってもらうために。

「大下さん、俺、覚悟は出来てます・・・だから・・・」
「彼女を頼むって?オレそんな器用な事できねーって言っただろ?」

真崎はがっくりと肩を落とす。
いくら脅されていたとは言え都合が良すぎた、と。
執行猶予中の身では実刑は免れない。事情が事情だけに量刑にはかなり影響はあるが、その間殆ど彼女とは会えない。
会えても監視付きで触れ合う事も出来ない。
若い2人にとってのその時間はとてつもなく長く感じるだろう。



「真崎、3時間やるよ。3時間以内にここに戻ってこい。2人でデート行って来いよ」
「え・・・でも・・・ヤツ等に見付かったら・・・!」
「お前の元のお仲間はもう昨日のうちに逮捕されてるよ」

真崎は驚いた顔をして大下を見た。

「昨夜電話くれた後、少年課の怖いお姉さんとオレの相棒が全員とっ捕まえてきた。その前にあのスクーターから1人逮捕はしてたんだけどな。事情知ってすげぇ怒ってたぜ」

その時の様子を思い出して勇次はクックと笑った。
それはあの子猫と出会った翌日の事。地道な車当たりで持ち主を割り出して逮捕。自供によって詳細を知った関係者は怒りを隠せなかった。
それに加えてそれを裏付けるような真崎からの電話。
話を聞いた敏樹と薫は勇次が止める暇も無く飛び出していき、真崎を脅していた連中を鬼の形相で引っ張ってきた。

本来ならば勇次が行くべきだったが、勇次はそれよりも「彼女」のために手は打っておいた。
ただしそれは勇次個人がどうできる訳ではなく、近藤の力添えがあったからこそだった。



「3時間以内に戻ってこなかったら自首扱いにはしないぞ。いいな?」

勇次はそれ以上は何も言わず、再びサングラスをかけた。
真崎と彼女は勇次に深々と礼をしてから雨の降る街へ駈け出していった。
その後ろ姿を見送って煙草を取り出した。
ポケットを探っていつものようにZIPPOを取り出そうとしたが、目の前に火が点されたマッチが差し出される。
いつの間にか敏樹が隣りに来ていた。

「いいのか?」

少し呆れたようにマッチを差し出した敏樹が言った。
勇次はそれで火を付けてゆっくりと紫煙を吐き出した。

「お前も心配性だな。あいつはちゃんと戻ってくるさ・・・彼女の為にも」
「・・・・やっぱり、お前は情が深すぎるんだ」

やはり呆れたように勇次が予想していた言葉をそのまま言うが、敏樹も今は勇次の真崎を信じる気持ちを信じたいと思っていた。
優しく微笑んで敏樹が言うと、勇次もつられて笑う。

「これって長所かな、短所かな?」

勇次は敏樹に問いかけるが、敏樹は何も答えない。
長所であり、短所であるからだ。
自分には無い優しさだからこそ、それを大事にして欲しかった。
だがいつか、その信じた相手に裏切られたら酷く傷付くだろう。
人間とはそういう生き物だ。
不安は尽きないが、真崎に関しては自分も信じたい、と敏樹は思っていた。
不安ではあるが、今心配すべき事ではない。

「オレは先に戻ってるぜ。ちゃんと連れて戻ってこいよ」

そう言い残して敏樹は真崎達が駈け出した方向とは逆に歩み始めた。
勇次はその姿も見送って、また空を眺めてから、目を閉じた。
街の雑踏に混じって雨音が響く。
その柔らかい音が心地良い。

―――雨も、そんなに悪くない、かな?

そんな事を思いながら1人スタジアム入口で佇み、雨音を楽しむ。




真崎は時間通りに戻ってきた。
勇次はその手に手錠を掛ける事をせず共に歩き出す。
わざわざそんな事をする必要も無い。
雨があがって遠くに虹が現れた。

「少しの間辛いだろうが、きちんと足洗って彼女を幸せにしてやれよ」

勇次の言葉に真崎は涙ながらに無言で頷いた。

明けない夜はない。
止まない雨もない。
例え裏切られても、こうして自分を信じてくれる人間が居る。その信用を勇次も大事にしたいと思う。
だからこうして仕事を続けられる。
ある意味幸せな事だと改めて実感する。
徐々に明るくなっていく空にかかる虹を見て、今日も歩き続ける。

信じてくれる人達の信頼を裏切らないために。