Under the strange sky


新緑の季節。桜も散って青々とした若葉で木々が賑わう季節だった。

そこは横浜から約1時間程走った、県境にも近い場所。
近隣の無料駐車場に車を置いて登山道と書かれた木製の古びた看板の指し示す方向には簡易階段が見える。
標高はそれほど高くないがまだ少し冷える。
眼前の人造湖を少し見てから歩き出す。
およそ登山には向かないようなスーツに革靴でその階段を登っていく。

普段なら土で汚れる、と言ってこんな格好では入らないであろうところを無言で2人は登っていく。
先頭を歩く勇次は真っ直ぐに目的の場を見詰め、敏樹は無表情と言った具合で歩く。
実際は無表情ではなかった。
前を歩く勇次の背中を少し心配そうに見ていた。
だが相棒の背中を心配する自身の心中も穏やかなものではなかった。

途中見知らぬ女性とすれ違った。
やはり登山とは縁遠い服装である事から、行ってきたであろう場所は自分達が今目指している目的地だろう。
自分達よりも年上であろう彼女の目は少し赤い。
2人に気付くと軽く会釈だけして足早に去っていった。

5分程歩いただろうか。
真っ直ぐ行けばそのまま登山道なのだが、少し隠れる様にして細い脇道がそこにあった。
2人は無言で登山道へは進まずその脇道へ入った。
そこは10m程行くと行き止まりになっており、ちょっとした広場のようなところだった。

中央には見事なケヤキがあった。
それは新緑の葉を揺らし、風に揺れて優しい旋律を奏でるように2人を迎えた。
勇次はサングラスを外し、しばらく目を閉じてその旋律に耳を傾ける。
優しい風が頬を撫でていく感覚と、周りの木々もその旋律に加わり心地の良い音が耳を擽るように自然と入ってくる。

しばらくそのケヤキを見上げていた勇次とは逆に、敏樹はその根本を見ていた。
沢山の色とりどりの献花。そして線香の香り。
まだ燃え尽きていないそれは恐らく先程すれ違った女性がここに居た証拠だろう。

―――あれから1週間・・・早いもんだ。

悲痛な面持ちでそれらを見詰める。勇次は相変わらずじっとケヤキの木を見詰めていた。




10日ほど前に遡る。
宿直の敏樹から連絡を受けた勇次は急いで支度をして自宅を飛び出した。

『お休みのところ悪いな。殺しだ。すぐにきてくれ』

いつもの口調で言われて、既に浅い惰眠を貪っていた勇次は一気に不機嫌になった。
そんな勇次の様子は敏樹は見ないでも解ったが、これは勇次には知らさねばならない事でもあった。
刑事としてだけでなく、個人としても。

『被疑者はその場から逃走。相手は即死。被疑者の名前は・・・・』

その被疑者の名前を聞いた途端、勇次は跳ね起きた。

「何の・・・冗談だ?」
『冗談じゃない。本当だ。・・・目撃証言も、ある』



現場に駆け付けると、既に現場検証が始まっていた。
その様子を苦々しい表情で見ていた敏樹に勇次が食ってかかった。

「なあ、どういう事だよ!」
「・・・・・・・」

敏樹は視線を外したまま何も答えようとしなかった。

「なあタカ!!」
「・・・・起きてしまった事をどうこう言うつもりはない。ただ・・・・」

敏樹は何か言いたげだったが、それ以上は何も言わずに勇次を押し退けて現場検証に戻っていく。
勇次は現実も状況も解らぬまま、呆然と立ち尽くすしかなかった。



事件の発生は22時半。
チンピラの道原は「カモ」を探していた。「カモ」とは進学塾帰りの中高生。
案外金を持っているのと、少し脅せばすぐに金を出す。
世間体を気にする親は何もなかったと、被害届を出さない事も多い。
駅前を少し歩けば進学塾など何件も見つかる。

その日も高校生を見つけて、いつものように金を出せと脅し、おどおどと差し出された財布を手にしようとした時だった。

「おい、何してるんだ!!」

その声に道原は舌打ちをした。
ここのところあまりにおいしいカモが多かったから連続してやり過ぎた、と。
警戒に当たっていた警官に声を掛けられたと思い愛想笑いをしながら振り返ると、そこには極々普通の年配の男が立っていた。
拍子抜けした道原は学生の財布をひったくり、男の胸倉を突然掴んだ。

「あんだよオヤジ、テメェなんかお呼びじゃねーんだよ。さっさと失せな」

まるで路上にゴミを捨てる様にその男を突き飛ばして財布の中身を物色し始めた。
しかしその男は決して引かなかった。

「その財布を、中身も手を出さずその子に返してやれ・・・」

そう言い放った男はまるで鬼の形相そのものの迫力だった。
道原は一瞬雰囲気に飲まれかけるが、見ず知らずの堅気にここまでされては腹の虫がおさまらない。
無言で懐からナイフを取り出して刃を男に向けた。
恐喝されていた学生はあまりの事に腰を抜かしてしまい動けない。

「ほら、怪我する前にさっさと去れや!」

だがその男にはそんな脅しは通じなかった。

「光モノだせばビビると思っているのか?」

その言葉で道原はキレた。元々キレやすい性格だったのも災いして男に対して手にしたナイフを振り上げたが、男は軽くそれを躱す。
何度も何度も空を切るナイフに道原もさらにイライラしてきた。
何故掠りもしないのか。何故こんなに躱されるのか。何故仕事の邪魔をした・・・。

もう脅す事もやめて殺してしまえ、そう思った。
一般的に見たら道原の考えはあまりに短絡した考え方だったが、そのくらいキレやすく、物事を深く考えない性格であった。
まっすく突っ込んできた道原のその手を男は力強く抑え込んであっという間に関節技を決めてナイフを奪い取ってしまった。
道原は何が起きたか解らず痛む手首を押さえながら前を見ると、自分が手にしていたハズのナイフが男の手にあった。

落ちていた財布を拾い上げてへたり込んでいる学生に渡してやって「早く帰りなさい」と優しく言った直後だった。
怒りに満ちた道原が襲い掛かってきていた。
突然の事だったので男も対応が少し遅れた。
目の前に居る学生を傷つけてはいけない、と力一杯に押し返して足払いを食らわすと道原は呆気なく倒れた。
しかし同時にゴツッと嫌な音が聞こえた。
ハッとして男は道原を見た。

「・・・・お、おい・・・・」

その問いかけに答える事は無かった。
縁石の角に後頭部を打ち付け、目を見開いたまま、道原は絶命していた。
それを見て男は青ざめた。身体中を震わせて後退る。

「そ、そんな・・・・そんなつもりは無かったんだ・・・・違う・・・・違うんだ・・・!!」

突然の事にパニックに陥った男は、そのまま逃げ出してしまった。



その男の身元はすぐに割れた。
坂本宗一。20年以上前にまだ小さい組織であった銀星会の元幹部。
長尾と共に銀星会を大きくしていった男だったが、意見の食い違いで袂を分かち、今では足を洗っておでん屋台の主人だった。
あの世界に嫌気がさして完全に堅気となっていた。
一見コワモテな顔に見えるが近所では人気の屋台の主人として、長年同じところに店を出していた。
最初は警戒していた付近住民も坂本の人柄もあって割合と早くに打ち解けた。
正義感のある親父さん。近隣住民はそうして慕っていた。
深夜に店を出す事で酔っ払いの騒音もあったが、坂本は防犯にも一役買っていた。

敏樹も最初は元銀星会関係者だけあって警戒していたが、調べていくうちに既に組織との縁は完全に切れている事が解った。
それでも念のためと張込みをしていると、わざわざそんなところで頑張らないでこっちに来い、と屋台へ招き寄せた。
さすがに面食らったところもあったが話を聞いている内に信用に足る男だと解った。
一方の勇次は坂本自身と坂本の屋台が大層気に入り常連化していた。

「まったくさー、タカは疑り深いんだよ」

そう言って日本酒を注いでもらう。
坂本はガハハ、と豪快に笑っていた。

「しょうがねえだろ大下さんよ。オレぁ一時でも、袂を分かってもあの大組織に居たんだ。疑われて当然さぁ」

そう言いながらまたガハハ、と豪快に笑う。
その様子を敏樹も微笑んでみていた。

「悪かったな、坂本さん。一応オレも仕事でさ」

そう言う敏樹にもまた豪快に笑う。
辛気臭い話は嫌いだと酒を薦めてくると、その豪快な性格もあって断りきれない。
だが必要以上に薦めてくることはない。
敏樹も無理矢理長尾の話を聞き出そうとは思わなかった。
ここには元ヤクザと現警察官という垣根は無い。ただの屋台の主人と客という肩書きしかなかった。




そんな坂本が殺人事件の被疑者として今、追われているという事が勇次は信じられなかった。
何事も無かったかのように捜査を進めようとする敏樹に食って掛かった。

「タカ、お前・・・本気で坂本のおっちゃんがやったって・・・思ってるのか?」
「・・・そうだ。業務上過失致死傷。もしくは正当防衛。まあ過剰防衛・・・だけどなこれだと」

思わず勇次の目つきが変わった。

「過失致死傷って・・・過剰防衛って・・・え?ええ??」
「その辺は検事や裁判官が決める事だ。オレ達はとにかく坂本さんを見つける事が先だ」

そう言って勇次の肩をポン、と叩いた。

「お前、殺しだって言ったじゃねえかよぉ!」

敏樹は勇次のそんな叫びも無視して歩き出した。
慌てて勇次もその後を追った。

全ては脅迫されていた学生が隠れて携帯電話でムービーを撮っていたのが証拠となった。
その学生も親には「帰り道は坂本さんの屋台のあるところを通りなさい」と言われていた。
人通りも割合とある上にあの正義感の強い坂本が居れば何かあってもきっと助けてくれる。
それ程信頼されていたからこそだった。
それがまさかこんな事になるとは、とその学生も両親も心を痛めていた。

依然として坂本の行方は掴めない。
横浜駅で見た、という目撃証言があってからは足取りはプッツリだった。
早々に自首をして欲しかった。しかし事態は1本の電話で急転した。
坂本本人から港署に電話が掛かってきた。それを取ったのは敏樹だった。

「坂本さん、今何処に居るんだ!皆心配してるんだぞ・・・」

坂本の名が出て一斉に全員が集まった。
勇次は別の電話でその会話を聞く。

『悪いなぁ・・・鷹山さんよ・・・オレぁ昔っから殺しなんてもんは大嫌いだったんだ・・・でも、弾みとは言え若いヤツの命を奪っちまった・・・オレぁそいつが耐え切れねぇ。オレ自身が耐え切れねぇんだよ・・・』
「落ち着け坂本さん・・・今何処に居るんだ。ゆっくり話をしよう、な?」

会話を聞いていた全員に嫌な予感がした。
自分を許せない。
課員達も坂本の事はよく知っていた。

「おっちゃん、オレだ、大下だ。なあ、タカの言うとおり少し話しようぜ・・・」
『・・・・皆に迷惑かけてごめんなぁ。すまねえなぁ・・・悪かったなぁ・・・』

坂本は涙ながらにそう言うと、電話が切れた。
逆探知には十分な時間だった。
場所を聞くと2人は署を飛び出し、近藤はその近隣の警察署に協力を仰いだ。

2人が現着した時、全ては終わっていた。
地元の管轄の警察が現場検証をしていた。
人造湖が見渡せるそのケヤキの木の下で切腹していたという。
地面を汚さぬよう地面にビニールシートを敷いていた。
グレーのビニールシートに包まれた坂本が地元警察へと運ばれていくのをただただ見送るしかできなかった。

「港署の・・・鷹山さんと大下さん、ですよね?」

地元警察の鑑識官が2人に歩み寄る。
悲痛な面持ちのまま黙って頷くと、ビニールに包まれた封筒を渡された。

「仏さんの近くに、丁寧に置いてありました。我々はまだ確かめていません。直接いらっしゃっているということなので一応・・・ご本人に中身を確認して頂きたいたいので・・・」

鑑識官の言葉が濁る。和紙の封筒に達筆で書いてあったそれは3通あった。
近隣住民充てと、敏樹と勇次へ1通ずつ。
2人は白い手袋をして丁寧に封を解いて中を確認した。
便箋も和紙で、とても丁寧に書かれたものだった。
世話になった事、楽しかった事、そして最期に迷惑を掛けて済まない、と。
読み終えて目を伏せたまま鑑識官にそれを一旦戻す。

「事件性は、無い。自殺に間違いない。鑑識が終わったら、また戻してもらえますか?」

鑑識官は黙ってそれを受け取ってまたビニールへ戻した。
勇次も同じく読み終えてから渡した。

悲痛な面持ちで眼前に広がる人造湖を見詰めた。
やるせない想いだった。
こんな結末は誰も望んではいない。

「仏さん、どうやらここが故郷だったらしいですわ。もう沈んじまって面影も無いですがねぇ・・・最期に故郷に帰りたかったんですなぁ・・・」

地元警察の刑事が独り言のように呟いた。
もちろんその言葉は2人には聞こえていた。
刑事はただ黙って湖を見詰める2人の背中を見てからその場を去った。

「馬鹿野郎・・・無責任すぎるだろ、坂本さんよ・・・」

恨み言を言いたくても、その本人はもうこの世には居ない。
絞り出すように言った敏樹の言葉も届かない。
勇次は何も言えずにずっと湖を見詰めていた。




結局、事件は被疑者死亡のまま送検、という形で幕を閉じた。
何とも後味の悪い結末だった。
勇次は坂本を思い出しながら持ってきた小さな花束をケヤキの木に手向けた。

あの日と同じようにまた、湖を見詰めた。
貯水量としては神奈川県一を誇るこの湖は県民にとっては無くてはならない存在になっている。
かつては民家等もあったが、今はその水底に静かに沈んでいる。
そこに坂本の生家があったという。
最期に生家の面影が漂うこの地に来て、何を思ったのだろうか。

「おっちゃんらしいと言えばおっちゃんらしい・・・かもしれないけど、こんなの誰も望んでねぇよ・・・」
「・・・・・・」

木々のざわめきでかき消されてしまいそうな小さな声で呟くように勇次が言う。
敏樹は何も答えられずに勇次の横に立って、同じように湖を見詰めた。
しばらくの沈黙の後、敏樹は再びケヤキの木の根元を見た。
遠く離れたこんな場所までわざわざ花を手向けに来る人は絶えないという。
その言葉通り、沢山の花や酒が寂しそうに置いてある。
その中に坂本の豪快な笑顔が浮かんでくるようで敏樹は堪らず目を逸らした。

勇次は肩を落としてただただ坂本との思い出に目を閉じた。
思い出されるのはやはり、あの豪快な笑い声、笑顔。
木々のざわめきと共に聞こえてきそうな、そんな感じがして耳を澄ませた。
しかし聞こえてくるのはざわめきだけ。
もう坂本は、居ない。

「・・・そろそろ行こう。長居しても・・・」

そう言いかけた時、ガサッという音と人の気配。
振り返った2人は意外過ぎる人物をそこに見て驚きで一瞬声が出なかった。

「・・・長尾・・・・」

敏樹がようやくそれだけを口にした。
そこには銀星会会長 長尾礼次郎の姿があった。思わず敏樹は身構えた。

「・・・貴様・・・」
「鷹山さん、今日はそういうの止めにしてもらませんかね。私はただ旧友を偲びたいという気持ちだけで来てるんですよ」

敏樹の言葉を遮って長尾がそう言う。勇次は敏樹を肩を抑えて首を横に振る。

「坂本とは袂を分けて以来、連絡も取りあっていませんでしたよ。ただそれでも、私にとっては戦友だった。それだけの関係でした」

普段見せる高慢な態度はそこには無かった。
影に潜んでいる付き人は殺気を放っていたが、長尾にはそれがない。

「・・・馬鹿な奴だ・・・こんなところで・・・」

長尾は持ってきた花を手向け、線香に火を付け、手を合わせてからそう呟いた。
それは本当に馬鹿にしている口調ではなく、寂しげにつぶやいた言葉に聞こえた。

「馬鹿な・・・奴だ」

もう一度そう呟いて長尾は去っていった。
その頃には普段のふてぶてしさや高慢な雰囲気を醸し出していた。
だが手を合わせて呟いていた姿は本当にただの旧友に向けた言葉だった。
そんな長尾の背中を見送り、一瞬殺気立ったその場に再び静寂が訪れた。

「・・・長尾は、おやっさんに戻って欲しかったのかな・・・」
「・・・知らねぇよ・・・クソッタレが・・・」

敏樹は勇次の問いに忌々しく答えた。
だが初めて見た長尾の姿。一瞬宿敵だという事すら忘れかけてしまったくらいに寂しい背中だったのが余計に敏樹を不機嫌にさせた。
だがその不機嫌も坂本の事を想うと長くは続かなかった。
例え犯罪を犯してしまった人でも罪は償ってほしかった。というより生きていて欲しかった。
殺意は無かったであろうというのはその場に居た学生からも証言が取れている。
あれは、事故だった、と。
しかし坂本にはそれが耐え切れなかった。事故であろうと人の命を奪ってしまったという事実。
遺書にもそう残されていた。

「行こうか、タカ」

今度は勇次からそう声を掛けると、敏樹はフッと笑ってサングラスをかけた。
2人がその場去ろうとすると再び柔らかい風が吹いて木々を揺らす。
ざわめきの中に一瞬、坂本のあの笑い声が聞こえたような気がして一瞬立ち止まった。

―――気のせいだ

2人はそう思って振り返らずに歩き出す。
風が木々や供えられた花を静かに揺らす。
湖面は風で波打ちながら日の光を優しく反射していた。


「あー、何か疲れちゃったな。帰りは東名で帰ろうぜー」
「我儘言うんじゃない。今の時間なら下道でも十分空いてる。早く帰ったところで仕事が山積みなんだぞ」

言われてみればその通りだった。
一応許可は貰ってきたがあまり早く帰り過ぎるのもどうかというちょっとした邪な考えが2人に浮かぶ。

「じゃあ中央道から首都高入ってグルグル回って湾岸線で帰るか?」
「・・・却下。余計に面倒だ」

思わず2人共吹きだした。
こうしてまた日常に戻っていく。

世間的に言えば人を殺してしまった犯人が自殺した。
それだけだったが、そこには沢山のドラマがあった。
彼に関わった全ての人達が彼の事を忘れないだろう。
それだけでもいいのかもしれない。

静かな山間を縫うようにレパードが走っていく。
いつまでも感傷に浸ることを許してくれない横浜に帰るために。